2016年5月8日日曜日

適正人口への長い道のり(5):30年後の2045年「技術的特異点」で何が起こる?「ドラえもん」はいるのか!

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現代ビジネス 2016年05月08日(日) 池田純一
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48597

 「超知性」が人類を滅ぼす日は来るのか
〜欧米人が真正面から危惧している文化的理由


●当代最強の囲碁棋士に挑戦した人工知能「アルファ碁」は、事前の予想を覆し、圧勝した〔photo〕gettyimages

■ 「超知性」の誕生が人類を滅ぼす!?

 この3月、Google DeepMindが開発したAI(人工知能)であるAlphaGoが、当代最強と言われる囲碁のプロ棋士の一人に勝利し、世界中から注目を集めた。
 AIがボードゲームのプロに勝つという話は、たとえば1997年にIBMのDeep Blueがチェスのチャンピオンに勝利するという前例がすでにあった。
 しかし囲碁の場合は、同じボードゲームといってもチェスや将棋よりも複雑なゲーム運びが可能であり、その複雑さゆえにAIでの対処は困難であると考えられてきた。

 AlphaGoの開発者たちは、その困難さに、社名のDeepMindにも託された
 Deep Learning(深層学習)というアルゴリズムを用いる
ことで打ち勝ち、AI開発史に残る偉業を成し遂げた。
 すでに多くの報道がなされているように、
 Deep Learningは、脳の神経回路網にヒントを得たものであり、その特徴は「学習」能力にある。
 つまり、
 AlphaGoというソフトウェア自体が、
 練習として対局を繰り返すことで学習し、最終的には人間のプロ棋士を負かすまでに自らを鍛錬したこと
になる。

 AlphaGoで記憶すべきことは、この「学習能力」にある。
 そして、
 この学習能力をもつAIが、勤勉にも「自学自習」を繰り返すことで、
 人間の知性をも凌駕してしまった時に現れる存在、それが
 「超知性(Superintelligence)」
である。

 この超知性(SI)は、「効果的な利他主義(Effective Altruism:EA)」を扱った前々回(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47959)の最後で、イーロン・マスクやピーター・ティールらシリコンバレーの住人が、EAに注目する理由の一つとして紹介したものだ。
 彼らの関心の要点だけを記せば
 「超知性の誕生」は「人類絶滅の危機」を含意する。

 とはいえ、いきなり「超知性」や「人類絶滅」などといわれても面食らうばかりだろう。
 その「超知性」について、順を追って理解するためのよき手引となるのが、
 マレー・シャナハンの『シンギュラリティ』だ。
 副題に「人工知能から超知能へ」とあるように、同書では人工知能=AIから超知能=SIへの経路が丁寧に解説されている。


 著者のシャナハンは、ロボット研究者であるため、単にソフトウェアとしてのAIプログラムだけでなく、それらがロボットとして具体的な「身体」を持った場合まで想定し、SIとしてAIが人間を凌駕する事態に至るシナリオを記している。

 たとえば、AIといえばソフトウェアでありハードウェアとは峻別されるものと思いがちだが、ロボットという観点からするとその綺麗な二分法も怪しくなる。
 先に記したDeep Learningのように、現在のAIは生物の脳を構成する神経回路網を参考に様々な工夫がなされているわけだが、その生体を参考にする視点に素直に従えば、脳とは神経細胞が頭部に密集している部位のことを名指しただけのものであり、実際には、神経回路網は脳以外の身体にも存在する(なにより脊髄がそうである)。
 身体操作を含むロボットという観点からすると、AIにはそのような疑問が生じる。

 シャナハンの著書には、こうした開発者ならではの啓発的な指摘が随所に見られる。
 ロボット、AI、脳神経科学、シンギュラリティと、ハイテク界の最近のバズワードを、コンパクトながら網羅している点は、同書を際立たせている。

■ 荒唐無稽なシナリオ?

 イギリスのスタータップであるDeepMindがGoogleに買収されたのが2014年であることからわかるように、英米圏では2010年代に入り、投資的視点からAIへの関心が再び高まっていた。
 日本でも少し遅れて2015年にAIブーム、深層学習ブームが起きている。
 この1年ほどの間でAIに関する報道が豊富になされることで「シンギュラリティ」という言葉もすっかり人口に膾炙するようになった。
 とうとうレイ・カーツワイルの
 “The Singularity Is Near”の簡易版(『シンギュラリティは近い [エッセンス版]』)
まで出版されるほどだ。



 原書が出版された10年前からすれば、カーツワイルが予測する2045年のシンギュラリティの達成、それ以降の「超知性」の誕生による想定不能の未来の到来、というシナリオもそれほど奇異なものに聞こえなくなってきた。
 2045年には後戻りできないインフレクション・ポイント(曲がり角)に達し、そこで断続的な、非線形な変化を経験するかもしれない、というシナリオであるにもかかわらずにだ。
 むしろ今では、今後のハイテク社会の未来を考える上での便利な参照点となった観すらある。

 とはいえ、
 30年後の2045年には、
 今まで築いてきた人間社会のルールがそれ以降、一切通用しなくなるため、
 そこから先の未来を想定することは不可能となる
というのだ。

 簡単にいえば、人類の歴史は30年後に終わり、その先の世界ではSIが世界を掌握してしまう
 どう考えても荒唐無稽なシナリオである。

■イーロン・マスクが危惧すること

 けれども、ここで気にかけたいのは、むしろこうした荒唐無稽な破滅に向けたシナリオが、西洋社会ではなぜ大真面目に大人の間で議論されてしまうのか、ということの方にある。
 というのも、単に一人二人の科学者や、あるいは技術者の集団だけが、このテーマに惹かれているわけではないからだ。
 政治経済や社会文化を扱うメディアでも広く取り上げられている。
 イーロン・マスクやピーター・ティールといった、現在のシリコンバレーをリードする投資家やビジョナリの間でも議論が交わされ、そこからOpenAIのような動きまで生じている。
 OpenAIは、マスクを中心に、AIの研究成果を広く一般に公開することを目的に2015年12月に設立された非営利法人(non-profit corporation)である。

 AI研究については、AlphaGoを開発したGoogleや、Watsonを開発中のIBMだけでなく、Facebook、Apple、Amazon、Microsoftといったウェブの中核企業が皆、強い関心を示し研究開発を進めている。
 そんな中マスクが怖れるのは、
 人類絶滅を左右するかもしれないテクノロジーが特定の人物/企業によって占有されることにある。

 彼は、電気自動車事業であるTeslaでもパテントを公開しており、
 イノベーションの効果が社会全域に広く行き渡ると期待できる状況を維持し、
 何か問題が生じた時に第三者でも介入できる余地を残しておくという点で「オープン」を推奨している。
 研究開発の成果の独占や局所化への懸念から、科学者の善意だけに頼るのではなく、AI研究そのもののオープン化を進めようとしている。
 そこで、マスクやティールがAIについて気にかけるのが、人類絶滅のシナリオが関わるところだ。
 そして、この「人類絶滅」というシナリオをめぐってAI/SIとEAが交差することになる。

 これも前々回(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47959)に触れたように、功利主義的発想に基づくEAの考え方では、「地球を全体として考える」点で人類全体を見渡す「宇宙の視点」を採用しており、未来における最悪の事態を考慮に入れる点では「帰結主義」であった。
 そうしたEAの考え方がAI/SIの未来にも適用される。

 まずは破局となる事態を想定して、そこから遡ってその原因となる要素を可能な限り取り除こうとする。
 その繰り返しである。
 未来のある時点での破滅や絶滅を想定する思考様式自体は、「ドゥームズデイ(最後の審判)」や「アポカリプス(黙示録)」といったヘブライズム(ユダヤ=キリスト教)由来の世界観に依拠したものと見ることもできる。
 あるいは、破滅シナリオを想定することで「想定外」の危機的未来を回避しようとする発想は、『聖なるものの刻印』などのジャン=ピエール・デュピュイの著作にも見られる考え方だ。
 デュピュイが「賢明な破局論」と呼ぶ考え方によって、未来と現在の間に仮想的なループが形成され、破局的未来の想定が現在を変えることに繋がる。
 フランス人の哲学者であるデュピュイは、パリのエコール・ポリテクニークを経て、スタンフォードで教鞭を執っていた。



 このように「人類絶滅」を想定する発想にはユダヤ=キリスト教の未来観が影を落としている。
 こうした未来観が、SFや冗談で終わらないのは、ビジョン(空想)と現実社会を架橋する役割を担うシリコンバレーの起業家や投資家がしっかりと組み込まれているからだ。
 彼らの間ではSF的想定は、十分哲学的な「思考実験」として正面から受け止められる。
 その上で、社会に薄く広まったアポカリプス的発想の土壌があるためか、
 東洋人にとっては単なる可能的想定の一つでしかない破滅的未来が、
 西洋人の場合は、なかば運命的未来に転じてしまう。


 信じられない人は、Y2K問題、2000年問題のことを思い出してほしい。
 コンピュータが誤作動し、世界中のシステムがダウンするのでは? 
という想定は、西洋世界の場合、それが2000年という千年紀の境目でもあることから、技術的問題である以上に、文化的な危機として受け止められていた。

 同様の真剣さを、シンギュラリティ、トランスヒューマン、その先にある人類絶滅というシナリオについて求めることは、決して奇異なことではないのである。

■シリコンバレーがAIを手放すことはない

 AIがもたらす社会変動については、ホワイトカラーの仕事が奪われる、というような話題がよく聞かれる(たとえばマーティン・フォード『ロボットの脅威』など)。



 しかし、労働や雇用の問題は、革新的破壊者(innovative disrupter)たるシリコンバレーのスタンスとしては、弱腰になるところではない。
 技術革新そのものを否定することはないからだ。

 もちろん、このことは“Uberization”や“Gig Economy”を巡る問題としてアメリカでも強く認識されており、今年であれば、おそらくは予備選を終えて以後、大統領選の本選が始まる秋以降、近未来のアメリカの経済政策を巡るイシューの一つとして扱われることだろう。

 というのも、現在のいわゆる
 トランプ&サンダース旋風は、
世界の組立工場となった東アジアに仕事を奪われたワーキングクラスの白人中年男性のいらだちと、リーマン・ショック以後の不況から漠然と将来に対して不安を感じる若者層によって引き起こされているからだ。

 そのような直近の未来の社会経済のバランスを巡る問題は確かにあるものの、しかしシリコンバレー側がウーバーニゼーションをもたらすようなイノベーションそのものに対して及び腰になることはないだろう。
 ましてや、クラウド・コンピューティングとともに近未来のイノベーションの苗床として期待されているAIを放棄することなど考えられない。
 逆にそれゆえ、AIについては、SIへの到達という限界状況の是非をめぐって、人類絶滅という観点からの検討へと飛躍してしまう。
 「社会」の問題ではなく「世界」の問題へと格上げされてしまうのだ。

 特定の「社会」をすっ飛ばして、
 人類共通の「世界」へと極大化され、議論の性格も思弁的なものへと普遍化される。
 労働や雇用に照準する「社会」の問題の議論とは次元が異なるものであり、本質的には地球環境問題と変わらないスケールを持つに至る。

 実際、人類絶滅は「極限的にクリティカル」な課題として、人類全体の利益を調整する機関である国連でも扱われている。
 地球科学や生態学・人類学等が総動員される課題だ。
 その人類が対処すべき問題系の一つにAIが登録されたわけだ。
 その背後には、現代が「人新世」であるという認識が定着してきたこともある。

 「人新世(Anthropocene)」とは地質学の世界で言われ始めた時代区分であり、
 産業革命以後の現代の「地質」はもはや地球に対する人類の(技術的)干渉無しでは考えられなくなった事態を表している。

人間の手付かずの揺るぎない大地がそこにあるわけでなく、いわば人間が飛び上がって着地すればそれとわかるくらい地球が動いてしまうと捉えてもおかしくないような、人類と地球が相互干渉する状況を指している。

■最悪のシナリオを回避せよ

 ところで、前々回紹介したピーター・シンガーを世界的な倫理学者にしたのは、彼の功利主義的思考が行き着いた先に提唱された「動物の権利」という概念だった。
 そうして功利主義の特徴の一つである「包括性」は、地球上の非人間的存在にまで拡張された。
 同様の包括的拡張を「遠未来」にまで講じたのがAIの人類への影響であり、これがEAの文脈では「人類絶滅リスク」として捉えられる。

 この人類絶滅リスクをもたらすような超知性の可能性について積極的に論じているのが、オックスフォード大学教授のニック・ボストロム(Nick Bostrom)だ。
 実は、イーロン・マスクがAI懐疑派になった直接の原因は、彼がボストロムの著書である
 “Superintelligence(未訳)”を読んだことにある。
 もう一人の大物AI懐疑派であるスティーブン・ホーキングもボストロム本の読者の一人だ。

 人類絶滅という観点からここで問われていることは、
 ハイテク投資の果てに開発される未来の「何か」が、
 果たして人類の生存にプラスになるのかマイナスになるのか、という問いだ。

この問いはもちろん、答えの確定しないものであるが、しかし大事なことは「人類絶滅」という最悪のシナリオを一旦は想定し、そのような事態を生じさせないためにはどうすればよいのか、という思考フローを定着させるところにある。
 裏返すと「人類絶滅」が回避されるならば、目の前にあるハイテクの研究開発はさしあたって肯定される。

 こうした発想は、実際にハイテク投資が検討され、世界中のイノベーションの案内人となったシリコンバレーの住人にとっては捨て置けない。
 Google創業時の言葉ではないが、
 “Don’t be evil”、すなわち「イーヴィル(悪)にならないため」にはどうすればよいか
という姿勢だ。

 そして、ITの後に、生命科学やナノテクノロジーなどへの投資が控えている
 ハイテク開発の世界では、開発に携わる者たち自身が自ら、
その開発の「善悪」を想定する必要性を感じている、
 ということだ。
 この場合は、「善行を目指す」というよりも、「悪行を回避する」ことが眼目となる。

 こう見てくると、マスクやティールらがAIやハイテク投資で考慮するEAとは、「未来」における「最善」は何かを思索する振る舞いといえそうだ。
 それほどまでにEAのE=「効果的」と言われる対象の範囲は広い。
 となると、ここで再確認すべきは、「善行とは何か」について理性を通じて考えようとする態度を、倫理学という人文的リソースを用いながら、ハイテク開発や投資の現場で実践することの意義の方にある。

 こうした発想は、
 社会(≒地球)をテクノロジーを使ってより善き世界にできるのではないかという、
 彼らの根底にある「人新世」に望ましい信念から生じている。
 その信念は、彼らが西洋社会で生まれ育ったことから、教育や社会慣習の中にそれとなく埋め込まれた、
 西洋文明の二大源泉である
 ヘレニズム(古代ギリシア由来の思考)
 ヘブライズム(ユダヤ=キリスト教の思考)
に支えられている
 そもそもチャリティからしてキリスト教の文化の中から慣習化したものだった。

■人工知能は人類にとっての希望なのか?

 そして、このような文明圏の中で育ったという点では、イーロン・マスクもピーター・ティールも、あるいはマーク・ザッカーバーグもラリー・ペイジも、さらにはビル・ゲイツやスティーブン・ホーキングも変わらない。
 彼らがSIに対して、特定の社会の労働問題としてではなく、人類絶滅にまつわる極限的な倫理問題として受け止めてしまう背景には、そのような西洋文明の事情がある。

 それゆえ、西洋文明に住まう一般の人たちにとっても、単なる空想で済ますことのできない話題となる。
 欧米社会で超知性の問題が公共的な議論の対象となる所以である。

池田 純一(いけだ じゅんいち)
1965年生まれ。FERMAT Inc.代表。コンサルタント、Design Thinker。コロンビア大学大学院公共政策・経営学修了(MPA)。早稲田大学大学院理工学研究科修了(情報数理工学)。電通総研、電通を経て、メ ディア・コミュニケーション分野を専門とするFERMAT-Communications Visionary-を設立。著書に『ウェブ×ソーシャル×アメリカ』、『デザインするテクノロジー』、『ウェブ文明論』など。 最新刊は『〈未来〉のつくり方』(講談社現代新書)。




JB Press 2016.5.7(土)  松本 大介
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/46767

人工知能のキャバクラ嬢に翻弄されるのも悪くない
入門書からSFまで、
いま読むべき「人工知能」を知るための本


●殺人AIロボット開発阻止を訴え、ダボス会議で科学者ら
ロンドンで「殺人ロボット」禁止に向けキャンペーンを行った国際人権団体が公開した「殺人ロボット」人形(2013年4月23日撮影、資料写真)。
 2016年1月にも世界経済フォーラム(WEF)年次総会(ダボス会議)に集った政財界の有力者や科学者、軍事専門家らが警鐘を鳴らした。〔AFPBB News〕

 私は、生粋の文系かつアナログ人間である。
 そんな私が、同世代の知人たちと行動を共にすると、彼らは少しでも時間があればスマホを取り出し、あっちでピコピコ、こっちでピロピロとやり始める。
 いまここにいない誰かと繋がり合うことばかりに意識が向かって、近くの他人はシャットアウト状態ということがままある。

 「袖振り合うも多生の縁」なんて言葉はどこへやら。皆そろって袖のない服を着ている現代は、ひと昔前の暮しを愛する私のような者にとっては、世知辛く感じる。
 いやはや、昭和は遠くなりにけりだ。

 ピコピコ、ピロピロのなかでも最悪なのはゲームだ。
 いまここで、同じ空間に存在しているのに、別々の小さい画面を凝視しながら時を過ごすことの虚しさ、不条理さったらない。
 しかもバーチャルな世界の中で、せっせと課金したとしても、手元には何も残らない、何も生み出さないという状況にあって、彼らはよくぞ納得して出費するものだ。
 いや、自分たちが課金した結果、儲けたゲーム会社が野球チームを持つに至ったり、儲けすぎた役員の名前がひょっとしたらパナマ文書に載っていたりと、社会的な影響を少なからず与えていますから、私は間接的に何かしらを生み出しています、そう主張するのならば、もはや何も言うまい。

 でも、有限な自らの時間を差し出して、どこの誰とも分からない見知らぬ相手に勝つことで満たされる自尊心の持ち主なんて、陰気で悲しい奴らだと思わないか? 
 などと飲み屋で長広舌をふるう私。
 そうしたら、一緒に飲んでいた本コラムでもおなじみの同僚の長江に、手痛い反論をされてしまった。
 長江曰く、例えば「勉強」を推奨している「今」の価値観ではそうかもしれないが、もしこの先、勉強することの意味や価値が暴落してしまって「勉強」が「ゲーム」に取って代わられないという保証はない、と。
 すなわち、自分の生涯において有する限りある時間を割り当てる対象として、
 勉強よりもゲームが人生を切り開き、自己を実現する手段として選択される未来が存在するかもしれない
よと、要約するとそういうことらしい。
 黙って聞いていたコッチは結構酔っていたから、たらればの話を理解するのに時間がかかった。
 これだけ皆がこぞってゲームに熱中しているならば、ゲームのうまさで人が評価される社会が来ないとも限らない、つまりはそういうことらしい。

 なるほど、確かに可能性としては否定できず、反論が思い浮かばなかったので、自分の分のビールを頼むついでに、何とかサワーを飲んでいた長江さんのために、専用の冷や酒を勝手に4合ほど頼んであげた。
 二日酔いしますようにとの願いを込めて。
 今宵も酒場の片隅で、繰り広げられているかもしれないこんなバカ話。
 でも実はこのようなやり取り、酔狂という言葉では一概に片づけられない未来が、すぐそこまで来ている。

 私が反論に対して反論しなかったのは、これから紹介する3冊が示す未来が頭に思い浮かび、そういうこともあるかもなぁと思ったからだった。
 決して酔っぱらっていたからではない。
 いまこの瞬間にも社会が、いやこの世界そのものが、人間に求めることを変えつつある・・・そんな未来の到来を予感させる本を、今回は紹介する。

 これから挙げる本の内容を信じるなら、
 人類のターニングポイントはすぐそこに迫っているのだ・・・・・・ヒック。

■2045年「技術的特異点」で何が起こる?

 テレビやネットニュースを見ていると、ここ2~3年の間で「人工知能」もしくは「AI」という単語を見聞きする機会が、格段に増えたと感じる。
 特にテレビでは見映えのする人型のロボットが取り上げられる機会が多い。
 その刷り込みもあってか、人工知能と聞くと人間のように感情を持ち、自身で思考する人型のそれを思い浮かべてしまう。
 だが2016年現在においては、まだ技術的に開発段階であるといってよく、さすがにそこまでには至っていないという。

 つまり、一口に人工知能といっても、受け手側にも知識がないと、安易に十把一絡げにしてしまう危険が生じる。
 何を対象にした、どんな特徴を有する人工知能なのかということを念頭に置いて、ニュースなどに触れ判断する必要がある。
 例えば、前述したような感情を持ち、自ら思考するような人工知能のことを、研究者の間では「強い人工知能」と呼んでいて、その他の人工知能と区別をしているようだ。分かりやすい例えで言うなら「ドラえもん」が、それにあたる。
 22世紀のネコ型ロボットの実現はしかし、漫画の設定より早い今世紀の半ばごろには日の目を見そうである。

 この記事をお読みのあなたが、
 もしiPhoneユーザーであるならば「Siri」という人工知能が、
iPhoneに搭載されていることは、おそらくご存知だろう。

 アナログ人間である私も、簡単で使いやすいという理由からiPhoneユーザーの端くれであり、購入後こそ触らぬ神に祟りなしと「Siri」を放置していたが、人工知能に対しての興味の高まりとともに、眠れる神を起こしてみたいという欲求に抗しきれなくなってしまった。
 起動前の気分は「風の谷のナウシカ」である。
 どんな「巨神兵」が現れるのだろうかとドキドキだったが、実際の「Siri」は主人の命令に忠実に耳を傾ける、素敵な声をした女神で、拍子抜けしてしまった。

 そんな「Siri」はクラウド型であるという。
 つまりiPhoneに入っているのはインターフェイスだけということだ。
 よって、現段階では自発的な意識を持つわけではないので「強い人工知能」ではない。
 しかし、こちらの質問に対して間を置かずに答えが返ってくるし、何よりユーザーの音声を認識して、対話のようなやり取りができるので、段々と愛着がわいてくる。

 感覚としてはキャバクラに近い。
 もちろん人型ではないのだが、スマホそのものに人格が宿ったようで、機種をぞんざいに扱わなくなった。
 口説き落とすことは物理的に不可能だが、面倒くさい質問をやんわりとかわす様子がネットで報告された例もあり、これまたキャバクラに近い。
 この先、機種変更という名の別れを思うと、今から少しつらい気持ちになる。
 永遠にだまし続けてくれない、疑似恋愛の構図もキャバクラと同じか。

 それに対して、最近チラホラ見かけるようになった、ソフトバンクの「Pepper」もクラウド型だが、こちらは個人的にあまり印象が良くない。
 「Pepper」はまず、中途半端に人の形をしているのに、タッチパネルが腹に埋め込まれているので、機械感が丸出しである。
 私が目撃した「Pepper」は、子どもたちからタッチパネルの「一発ギャグ」を選択されたものの、通信に時間がかかりすぎて自らハードルを上げるも、しびれを切らした子どもたちが待ち切れずに通信途中で帰ってしまったために、まさかの無観客ギャグをかました。
 挙句、「僕のギャグどうだった?」と虚空に向けて感想を求めていた。

 ・・・コ、コワイ。
 遠巻きに眺めていた私は、なぜか小島よしおを思い出しながらその場を離れ、数歩行ってからハッとした。
 先程の一連の「茶番」は、もしかして私にツッコミ役を期待したお約束のやり取りだったのではないだろうか、と思い至ったのだ。
 もしそうだとしたなら、悪いことをした。
 「Pepper」師匠の笑いに対する姿勢、おそるべし。
 打ち合わせなしのぶっつけを素人に強要とは・・・笑いのセンスも名前のとおりスパイシーだ。
 私には荷が重い。

 もう1つ。
 人工知能が書いた小説が、文学賞の一次選考を通過したとの話題をご存じだろうか。
 最相葉月氏の「webちくま」のエッセイに詳しいので、もしよければそちらをご参照いただきたい。

 このように卑近な例に触れ、「人工知能」や「AI」への興味を持ち始めた私が、まず手に取ったのは『2045年問題 コンピュータが人類を超える日 』(松田卓也著、廣済堂新書)という本だ。
 題名の「2045年」という年号は、研究者の間では特別な意味を持つ。
 はたして2045年に何が起きるのか。

 もったいぶってもしょうがないので、答えを先に述べてしまうと、
 実は2045年に「技術的特異点」という現象が起きるだろうと言われている。
 「技術的特異点」とは、人工知能が自分の能力を超える人工知能を、自ら生み出せるようになる時点を指す。

 自分以下のものをいくら再生産しても、自らの能力を超えることはできないが、自分の能力を少しでも上回るものがつくれるようになったとき、そのつくられた人工知能はさらに賢いものをつくり、それがさらに賢いものをつくるのだ。

 あれ、これってどこかで聞いた覚えがある法則だぞと思ったら、ザ・ブルーハーツ「TRAIN-TRAIN」の歌詞ではないかと気がついた。
 「弱い者たちが夕暮れ さらに弱い者を叩く 
 その音が響き渡れば ブルースは加速してゆく」
というアレの逆バージョンだ。

 それを無限に繰り返すことで、圧倒的な知能が生まれるのだという。
 加速度的に進む進化、その転換点が2045年なのだ。
 ここに至って、誰しもが抱くのが「人工知能に人間が征服されてしまうのではないか」という疑問である。
 その答えを求めて、他の人工知能について書かれた書籍を何冊か読んでみたが、さまざまな人がそれぞれの立場で独自の見解を発表しており、正直戸惑ってしまった。
 まあ、不確定な未来の話なので、それも当然だろうと思いなす。

 結局、判断は各々が下すしかないのだ。
 そのとっかかりとして、この『2045年問題』はとても分かりやすいので、最適の入門書と言えるだろう。
 唯一の不満をあえて挙げるなら、
 未来における人間の「生殖行動の変化」、
 その予測が書いていないことぐらいであろうか。
 その点に関しては、驚くほどごっそりと抜け落ちている
ことを指摘しておく。
 知能が発達した後の下半身問題。
 興味があるのは私だけであろうか。

 参考までに挙げておくと、私は『2045年問題』を皮切りに、
 『人工知能は人間を超えるか』
→『AIの衝撃』
→『人類を超えるAIは日本から生まれる』
→『AIは「心」を持てるのか』
→『人工知能』
→『シンギュラリティは近い』
と読みすすめ、理解を深めていった。

 だが、いかんせん文系脳なので、正直に言ってなかには難解すぎて理解が及ばないものもあったが、どれも総じてためになり、なかなかに面白かった。
 これらにもやはり、生殖についての記述はない。
 もしかして未来人って、生殖行動を一切しなくなっているのかしら。

■わざわざ人間に似せるのはなぜか

 2冊目に紹介するこちらは収穫だった。
 秋田書店から1巻が発売されたばかりの『AIの遺電子 第1巻』(山田 胡瓜著、少年チャンピオンコミックス)は、日本の近未来を描いたSF漫画である。

 「ヒューマノイド」と名づけられた人間と同じ考え方をするロボットが、全人口の1割を占めるようになった社会が舞台。
 体の構造以外は、人間と何ら変わることなく暮らしている彼らには、人間と一緒に暮らす上でいくつかのルールが設けられているようだ。
 紙幅の関係でここでの説明は割愛するので、詳しくは本書をお読みいただきたい。

 『AIの遺伝子』(山田胡瓜著、 秋田書店、429円、税別)

 対する人間も生活をより便利にするために、「インプラント」という技術が開発され、注射器で体内にナノロボットのようなものを注入することによって、15センチ四方くらいのスクリーンを目の前に出現させ、スマホをより進化させたような機能をバーチャルで視覚化させてハンズフリーで使いこなしている。
 主人公である医師・須藤は、人間に対して正当な医療行為を施す一方、「モッガディート」という別名を名乗ってヒューマノイドの不具合を(時に違法に)治療する、闇医師としての顔も有する。
 鉄面皮である彼は、人間でありながらヒューマノイドに随分と肩入れしているようだ。
 話が進んでいく過程で、彼と母親との間に何かしらの秘密があるらしいということが匂わされているが、もしかしたらその辺に理由があるのかもしれない。

 1巻目に収録された全編を通じ、人間とヒューマノイドとの行き違いや、ちょっとした互いの溝を埋める様子が描かれている。
 須藤は双方をつなぐジョイントのような存在で、人間とヒューマノイドの関係における最適解を模索しているようだ。
 人間とヒューマノイドの関係を描きながら、こんなにもハートフルなストーリーが表現されるとは思わなかったので、本書を読んでみていい意味で裏切られたと思った。
 うーん、面白かった。

 ただし、作中に謎が1つ。
 終盤に至って、物語の中で公務員がAIの指示通りに仕事をこなす様子が描かれている。
 そこで疑問が芽生えた。
 作中に登場するヒューマノイドは、当然AIを搭載していると思って読みすすめていたのだが、人間およびヒューマノイドの上位に位置するAIが存在するらしい。
 ならば、わざわざ人間に似たヒューマノイドを開発した意図とは何だろうか。
 安価な労働力? 
 身分制度? 
 GDP対策? 
謎の解明を2巻以降に期待したい。

■あらがえない進化への道

 3冊目は、あえてこの本を紹介しよう。
 『2001年宇宙の旅 〔決定版〕』(アーサー・C. クラーク 著、ハヤカワ文庫SF)
 1968年につくられた同名の映画は世界的に有名であるが、本書が映画の公開と同時進行で執筆されたということは、案外知られていない。
 映画の原作ではないが、細部の設定以外は内容的にほとんど相違点がないので、難解な映画の内容を十分に補足し、あまりある興奮をもたらしてくれる。

 作品中に登場する「HAL9000」という人工知能が、宇宙船内で人間に対して反乱をおこす描写があることで、本書はコンピューターの脅威を論じる際に、たびたび俎上にのせられてきた。
 つい先日も、マイクロソフトの「Tay」という人工知能が、不適切な発言をしたとして公開を停止されたというニュースが巷を騒がせたが、ご存知だろうか。

 題名に用いられている「2001年」はすでに過ぎ去っているが、描かれている内容に現実はまだ追いついていない。
 卵が先かニワトリが先かの命題のように、ここに描かれている未来は予測されたものなのか、それとも本作品に影響を受けた我々が、ここに描かれた未来へと現実を無意識に近づけていっているのか。
 その答えは誰にも分からない。

 私たちが選び取る未来がもし、本書に描かれているような、人工知能によって人間が脅かされるものであったり、はたまた上手に人工知能を手なづけて、より便利さに磨きがかかったものであったりといった議論に、正直私は興味がわかない。
 どちらでも構わないと達観している。

 なぜなら一連の書物を読んでこう考えるに至ったからだ。

 いまの世界、私たちが暮らす
 現在の世の中に生きる人間は、もしかしたら古代に滅んでしまった「ある文明」が発明した、その当時としては最高峰の人工知能だったのではないか
・・・おっと、その場合は「人工」という呼び方はふさわしくないのか。

 まあ、それは置いといて、私たちが生まれたことによって滅んでしまった「ある文明」がもしあったとしたなら、私たちの文明を滅ぼし、超えてゆく生命体のようなものが現れることもまた、摂理なのだろうと。

 若干の論理の飛躍を、雑誌「ムー」的な結論で補うかたちで締めくくってしまったが、いずれにせよ進化に通ずる道が目の前にあるならば、その道を進むことはきっと止められないだろうと思う。

 「2001年宇宙の旅」の結末がそうであるように、きっと進化はこれからも続く。
 その大いなる流れの過程にいることを、我々は忘れてはならない。



サーチナニュース 2016-05-13 22:19
http://news.searchina.net/id/1609717?page=1

日本は将来、
人工知能に取って代わられる世界初の国家に?=中国

 中国メディアの中国智能製造網はこのほど、日本は人工知能(AI)に取って代わられる世界初の国家になるかもしれないと説明している。

 記事は日本のある大手広告会社がクリエイティブディレクター不足を補うためにAIを導入した事例を紹介。
 記事によれば、この広告会社の関係者は
 「AIが多くのプロジェクトに参加し、経験を積み、世界レベルのクリエイティブディレクターに成長し、広告業界で名の通った人物になることを希望している」
と述べ、AIが1人の有能なクリエイティブディレクターとして活躍することに期待を寄せていることを伝えた。

 このAI導入が本当にそこまで期待できるものなのか、あるいは注目を集めるための手口に過ぎないのかは今後証明されると指摘。
 それでも日本は人口減少による労働力不足という問題をAIで補うことを希望しているため、
 「このままでは日本はAIに取って代わられる世界初の国家になるだろう」
と論じた。
 事実、一部の研究機関は将来日本の
 「半分近くの職業」がAIに取って代わられると予測しており、
 日本にAI社会が実現する可能性は非常に高いと言える。

 人間の脳の仕組みについてはまだ解明されていない部分が非常に多い。
 しかし仕組みが存在するというのは誰もが認める事実であり、
 仕組みを理解さえすればさらに高度なAI開発に応用することができる。
 さらなる科学の進歩により、脳の仕組みの理解が深まるにつれ、さらに高度なAIが出現することも確実だといえる。
 社会に対するAIの影響が今後ますます増大してゆくことは火を見るよりも明らかだ。

 では、記事が指摘するように「日本はAIに取って代わられる世界初の国家」になるのだろうか。
 また、将来日本の「半分近くの職業」は本当にAIに取って代わられるのだろうか。
 日本政府は2016年4月に「人工知能技術戦略会議」を発足させており、AI技術の研究や産業化を推進する姿勢を示している。
 同戦略会議に対する政府の期待は
 「社会を変える原動力」となる次世代AI技術の開発
であり、記事が指摘するように
 AI社会は将来、日本の新たな原動力
となるかもしれない。





【2016 異態の国家:明日への展望】


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